中国史の史実の人物『永楽帝(えいらくてい)』とはどんな人物だったのか?
また、后妃や子供たちについてもまとめていこうと思います。
ぜひ、気になった方は参考にしてみてください
この記事の目次
史実の永楽帝(えいらくてい)の生涯!
永楽帝(えいらくてい)
永楽帝(えいらくてい)は、明の時代の第3代目皇帝になります。
姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)
在位中の元号「永楽」から永楽帝と呼ばれるようになりました。
永楽帝(えいらくてい)の父母
父親
洪武帝
母親
孝慈高皇后馬氏 – 碽妃(一説)
誕生から即位まで
永楽帝(えいらくてい)は、至正20年8月14日(1360年5月2日)朱元璋(後の洪武帝)の四男として生まれました。
父親は、朱元璋(後の洪武帝)で黄巾の乱で頭角を現した1人。
永楽帝(えいらくてい)は、特に記憶力がよく一度読んだ本は忘れないほどだったといいます。
父親である洪武帝は、自分の長男である朱標が死去したあと、朱棣(のちの永楽帝(えいらくてい))に跡を継がせたかったが、周りの反発があり断念。嘆き悲しみました。
洪武帝の崩御後、即位したのは甥の建文帝(朱標の子)。
周りからは、朱棣(のちの永楽帝(えいらくてい))が反乱を起こすかもしれないと助言しましたが、建文帝は、朱棣(のちの永楽帝(えいらくてい))は身内だから反乱を起こすはずがないといいました
ですが、実際は北平の官吏の一部が朱棣と結託しているという情報が入り、建文帝の周りの方が内通者を逮捕しました
朱棣は難を逃れるためか、狂った人間のように装っていましたがそれもまた内通者に密告し、朱棣を逮捕するように命じましたが、朱棣は逆に朝廷関係者と内通者を捕縛し殺害します。
その後、兵を集め、南京の建文帝に対し反乱を起こし、朱棣は自らの軍を「靖難軍」とよび、ここからこの反乱を靖難の変と呼ばれるようになりました。
建文4年(1402年)靖難の変に勝利した朱棣は皇帝に即位し、永楽帝となります。
永楽帝は建文帝の存在を「革除(歴史から抹殺)」しました。
建文の元号を抹消し、この年を洪武35年とし、翌年(1403年)を永楽元年としました。
永楽帝(えいらくてい)と后妃とその子供たち
后妃
- 皇后:仁孝文皇后徐氏
- 昭献貴妃王氏 – 1420年薨。
- 恭献賢妃権氏 – 権永均の妹。1410年薨。
- 忠敬昭順賢妃喩氏
- 恭順栄穆麗妃陳氏 – 1424年殉死。
- 康靖荘和恵妃崔氏 – 1424年殉死。
- 康穆懿恭恵妃呉氏 – 1424年殉死。
- 端静恭恵淑妃楊氏
- 恭和栄順賢妃王氏
- 昭粛靖恵賢妃王氏
- 昭恵恭懿順妃王氏
- 恵穆昭敬順妃銭氏
- 康恵荘淑麗妃韓氏 – 1424年殉死。
- 安順恵妃龍氏
- 昭順徳妃劉氏
- 康懿順妃李氏
- 恵穆順妃郭氏
- 昭懿貴妃張氏
- 順妃任氏 – 1421年自殺。
- 妃黄氏 – 1421年刑死。
- 昭儀李氏 -1421年刑死。
- 婕妤呂氏 – 1413年炮烙で刑死。
- 恭栄美人王氏
- 景恵美人盧氏
- 荘恵美人
永楽帝が崩御後、妃嬪と宮女共に30人ほどが殉死を命じられたそうです。
子供たち
男の子
- 長男:朱高熾 – 洪熙帝。母は徐皇后
- 次男:朱高煦 – 漢王。母は徐皇后
- 三男:朱高燧 – 趙王。母は徐皇后
- 四男:朱高爔 – 母は康穆懿恭恵妃呉氏。夭折
女の子
- 長女:永安公主 – 母は徐皇后。広平侯袁容に降嫁した。
- 次女:永平公主 – 母は徐皇后。富陽侯李譲に降嫁した。
- 三女:安成公主- 母は徐皇后。西寧侯宋琥に降嫁した。
- 四女:咸寧公主 – 母は徐皇后。西寧侯宋瑛(宋琥の弟)に降嫁した。
- 五女:常寧公主- 沐昕に降嫁した。