中国の清皇帝の康熙帝(こうきてい)。
康熙帝(こうきてい)はどんな皇帝だったのか?
康熙帝(こうきてい)のエピソードや后妃、そして子供たちなどご紹介していきます
この記事の目次
清皇帝 康熙帝(こうきてい)とは
康熙帝(こうきてい)が即位
康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。
順治帝の第3子。
康熙帝(こうきてい)は、幼いころに疱瘡(天然痘)に感染したため、城外に出されてしまう。
順治帝は子育てにはあまり関心がなく、順治帝の母である孝荘文皇后に厳格にしつけられました。
その間に、康熙帝(こうきてい)の疱瘡(天然痘)が改善し、それを知った父である順治帝が次の皇帝として皇太子に指名される。
同じ年に、父の順治帝が亡くなってしまい康熙帝(こうきてい)は8歳という若さで即位することとなりました。
即位後、沢山の正室、側室を迎え子だくさんとなります。
康熙帝(こうきてい)の内政・政治
康熙帝(こうきてい)は、非常に内政にも熱心であり、また倹約家でも有名。
自らの分も節約に努め、1日で使っていた明(みん)での費用も1年分にまで抑えることに成功。
財政は非常によくなり、民に対しても減税をたびたびおこなうほどの名君でした。
頭を悩ませた後継者問題
一番康熙帝(こうきてい)を悩ませたのが後継者問題です。
康熙帝は孝誠仁皇后が生んだ皇二子の胤礽を、康熙15年(1676年)に皇太子に立てたるほど、康熙帝は胤礽を非常に可愛がっていました。
ですが、胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚
康熙帝は、泣きながら胤礽を叱責し、逮捕させました
これが原因で康熙帝(こうきてい)は不眠症となってしまいます。
これがキッカケで胤礽は皇太子の座を廃しました。
その後も帝位争いがありましたが、皇子十四番目の胤禵が有力候補でしたが、その後康熙帝(こうきてい)の死後康熙帝の遺言なるものが見つかり、そこには「胤禛は人格が立派で、私に孝行であり、政治の才能もある。帝位に就くのに適している」と書かれていたとされ、次の皇帝には胤禛がなりました。(後の雍正帝)
康熙帝(こうきてい) 后妃や子供たち
正室
孝誠仁皇后
子:
- 皇子承祜
- 皇二子胤礽
孝昭仁皇后
子なし
孝懿仁皇后
子:
- 皇八女
側室
- 孝恭仁皇后
- 皇四子胤禛(雍正帝)、皇六子胤祚、皇七女、皇九女固倫温憲公主、皇十二女、皇十四子恂郡王胤禵
- 愨恵皇貴妃
- 惇怡皇貴妃
- 皇十八女
- 敬敏皇貴妃
- 皇十三子怡親王胤祥、皇十三女和碩温恪公主、皇十五女和碩敦恪公主
- 温僖貴妃
- 皇十子敦郡王胤䄉、皇十一女
- 順懿密妃
- 皇十五子愉郡王胤禑、皇十六子荘親王胤禄、皇十八子胤祄
- 純裕勤妃
- 皇十七子果親王胤礼
- 恵妃
- 皇子承慶、皇長子直郡王胤禔
- 宜妃
- 皇五子恒親王胤祺、皇九子貝子胤禟、皇十一子胤禌
- 栄妃
- 皇子承瑞、皇子サインチャフン、皇三女固倫栄憲公主、皇子長華、皇子長生、皇三子誠郡王胤祉
- 定妃
- 皇十二子履親王胤祹
- 宣妃
- 成妃
- 皇七子淳親王胤祐
- 良妃
- 皇八子廉親王胤禩
- 平妃
- 皇子胤禨
- 慧妃
- 襄嬪
- 皇十九子胤禝、皇十九女、皇二十子簡静貝勒胤禕
- 熙嬪
- 皇二十一子慎郡王胤禧
- 謹嬪
- 皇二十二子恭勤貝勒胤祜
- 静嬪
- 皇二十三子貝勒胤祁
- 穆嬪
- 皇二十四子誠親王胤祕
- 通嬪
- 皇十女固倫純愨公主
- 端嬪
- 皇二女
- 僖嬪
- 貴人
- 皇五女和碩端静公主
- 貴人
- 皇子胤䄔、皇六女固倫恪靖公主
- 貴人袁氏
- 皇十四女和碩愨靖公主
- 貴人
- 皇子万黼、皇子胤禶
- 貴人
- 貴人陳氏
- 皇子胤禐
- 庶妃張氏
- 皇長女、皇四女
- 庶妃王氏
- 皇十六女
- 庶妃劉氏
- 皇十七女
- 庶妃
- 皇二十女
など
康熙帝(こうきてい)の作品
- 康熙王朝
- 皇帝の恋 寂寞の庭に春暮れて
- 宮廷女官 若曦
- 宮 パレス 〜時をかける宮女〜
- 諍い女たちの後宮
- 龍珠伝 ラストプリンセス
- 花散る宮廷の女たち〜愛と裏切りの生涯〜
- 宮廷の茗薇 〜時をかける恋
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